映画『658km、陽子の旅』は菊地凛子初の邦画単独主演作であり、当時新人であった菊地(クレジットは菊地百合子)をヒロインに抜擢した熊切和嘉監督の劇場デビュー作『空の穴』(2001年)ぶりに2人がタッグを組んだ作品となった(なお本作で菊地は『第25回上海国際映画祭』で「最優秀女優賞」を受賞。また、「最優秀作品賞」と「最優秀脚本賞」の3冠を獲得している。)
熊切監督たっての希望で、「42歳、独身。就職氷河期世代の在宅フリーター」を演じることになった菊地は、「すべてのシーンにおいて熊切監督とは同じページにいた気がします。監督が撮りたいことも分かるから、全然ブランクを感じなかった」と語る。陽子は、かつて夢への挑戦を反対されたことがきっかけで20年以上断絶していた父親が亡くなった知らせを受け、半ば強引な形で従兄の茂(竹原ピストル)に連れられて青森へ車で向かう。しかしひょんなことからサーヴィス・エリアで離れてしまい、所持金のない陽子は青森までの658kmをヒッチハイクで旅することになるのだが、人付き合いをまるでしてこなかった彼女にコミュニケーション能力などといったものがあるはずもなく、先々で出会う人々(自分とは正反対の人懐っこい女の子、優しい言葉で手助けしてくれたものの下心があった物書き、無償の温かさを陽子にくれた老夫婦など)とのやりとりは不甲斐ない。しかも時折現れるのは若き日の父(オダギリ ジョー)の幻影。陽子は翌日正午の出棺までに実家に辿り着けるのか?
熊切監督は陽子の心情にどこまでも寄り添い、揺れ動く気持ちを丹念に丁寧に掬い取り続けることに一貫していた。そして菊地が演じた陽子の表情——不安気な顔、ふと気持ちが緩んだ表情、頭の中が混乱している表情、勇気を出そうと思った時の顔——の豊かさ(決して大袈裟な表現ではない、むしろ控えめなのに彼女の心情がありありと表出していた)や、不恰好で不器用なのにどこかチャーミングでユーモラスな言動の連なり、それらがじわじわと変化していく模様。その魅力は何とも説明しにくいのだが、観るほどに目が離せなくて、当初こそ「陽子の旅の目的は果たされるのか?」という頭で観ていたものの、早々に「陽子をずっと観ていたい、彼女の道中を見守りたい」という気持ちに切り替わった。
菊地が本作の素晴らしさの一端を物語ってくれた。
「良い付き合いだけが彼女を変えたわけじゃないじゃない。本当に辛いことも、嫌なことも、できたらそのことには触れてほしくないことも経験したことで、彼女は変わっていった」
—— お話が来てすぐに快諾されたということですが、この作品のそのようなところに惹かれましたか?
菊地 熊切監督とは22年前くらい前、役名が初めて付いた役を私がもらって以来だったんですね。なので『658km、陽子の旅』という仮題と熊切さんが監督をやられると聞いた時点ですぐにやろうと決めて。あとはロード・ムーヴィーであるということ。人と関わることが不器用な人でなくとも起こりうる旅で、父とも向き合うのですが、やっぱり自分と対面していく旅になるんです。いろんな人との出会いもあって、再生に向かっていく。もちろん良い出会いばかりではなくて、冷たい人がいたり、暴力的な出来事もあるけど、でも人生って綺麗事だけが転がっているわけではないし、見たくないようなことがあっても生きていかなきゃいけないじゃないですか。陽子の旅はまるで人生みたいだなと思いました。それと、40代でなかなか主演をやる機会もないのと、40歳を過ぎた女性が軸に描かれるってレアなケースですからね。本当はもっと、作品も多種多様になればいいのですけど。
—— 確かに、40代の女性がメインで取り上げられるケースは少ないですよね。同じ年代だからこそ「ここは分かるな」というところはありましたか?
菊地 私も器用なタイプではなく、例えばいろんなことがあって心がざわつくけど、それを言語化できない時がある。「何なんだろう、このモヤっとした感じは」って。陽子はその塊になってしまっていて、前も後ろも向けない状態ですよね。「そういうこと、自分もあるな」と思います。立ち止まっちゃう時は絶対にあって、もはやなぜ立ち止まっているのかもよく分からない時が。だけどそういうことって生きていたら多かれ少なかれ誰にでもあるんじゃないかなと思います。この作品ではある種の荒療治をきっかけに動けるようになっていくのですが、それまでは彼女1人の世界で成り立ってはいたんですよね。家でできる仕事をして冷凍食品のパスタを食べて好きな動画を観てと、のびのびやっていた。だけど、対社会になった途端に自分が卑屈になっちゃう。自分としっかり向き合わざるを得なくなるところが面白いと思います。大変だったけど結果として、旅を続けて人とコミュニケーションを取ったことで、人間は人と人の間にしか自分を見出せない生き物だということも分かってくる。だから別に良い付き合いだけが彼女を変えたわけじゃないじゃない。本当に辛いことも、嫌なことも、できたらそのことには触れてほしくないことも経験したことで、彼女は変わっていった。
—— 菊地さんは、「これをきっかけに大きく変わったな」という出来事や経験として何が浮かびますか?
菊地 いっぱいありますけどね。熊切さんと『空の穴』という作品に出たこともそうですし、その後アレハンドロ(ゴンサレス・イニャリトゥ)監督に出会い、『バベル』という作品がきっかけで海外作品に出られるようになったことも大きなきっかけですし、結婚して子供ができたこともそうです。大きいことで言うとそうですけど、でも、毎日いろんな選択をしなきゃいけないじゃないですか? 朝食を「パンにするか、ご飯にするか」、「これはうちの子供は食べるのか、食べないのか」とか(笑)。毎日いろんな選択をしていて、その選択の先に「誰々とこの映画を一緒に作る」という大きな選択がさらにやってきたりする。毎日の小さな選択が大きな選択、大きなきっかけにも繋がっていると思っています。
—— パンかご飯かがすべてに繋がっていく。
菊地 そうそう。「コーヒーにするか、紅茶にするか」、そういった日常の小さな選択もすごく大事だよなぁと思います。日々を送っていると、名前のない作業が多いじゃないですか。この作業は何だろう……この時間に半日も使っていないか?ということがある。だけどこの毎日がこの作品に繋がってと考えると……この日常を大事にしなきゃと思います。
—— 序盤の陽子は、ちょっとコミュ障で難しい女性なのかなと思っていたのですが、不思議なことに観ているとどんどん陽子が可愛く見えてきて。特に菊地さんの独り言のシーンが好きで、ずっと聞いていたいなと思うくらいでした。目が離せない。そういうチャーミングさみたいなものってやはりどこか、菊地さんご自身の何かが滲み出ているのかなと思ったのですが、それを聞いてご本人としてはどうですか?
菊地 ありがとうございます。熊切監督はとにかく私の動きが面白いとはおっしゃっていました。22年前にオーディションで私を決めてくれた後も、「とにかく動きが変」って。自分ではあまり意識はしていないのですが、陽子が社会と少しずれているのを動きでも表現する際に、自分の中のちょっとしたものが出ている気はします。例えば、私は考え事をし始めるとどんどん猫背になっていくところがあるのですが、陽子はずっと猫背なんですよね。でもイカスミのパスタはあまり食べないですね(笑)。陽子、イカスミのパスタを食べていて、すごいなぁって思いました。
—— 誰とも会わない前提で暮らしているから。
菊地 確かに。だから選べるのか。
—— 寒空の下のサーヴィス・エリアで車を待っている時の陽子の妙な動きも記憶に残っています。
菊地 そうそう、あのシーンは、めちゃくちゃ引きで撮っていたのですが、カットがかかるとカメラの横にいた監督がすごい勢いで走ってきてくれて、「動きが最高に面白い」と一言だけ言ってまた戻っていくっていう。「監督も面白いけど」と思いましたけど(笑)。本当に監督は、私が何をやってもめちゃくちゃ笑顔で「はい、オッケー」みたいな感じ。もう監督、最高ですよ。愛のある人。よく女優さんは、監督の想像力を湧かせなきゃいけないと言うけど、熊切監督は何を撮りたいかっていう想像力を湧かせてくれる監督です。「こういうのをやりたいんだな」、「きっとこういうことをやったら面白がってくれるな」とか。そういう感じでずっと進められました。すべてのシーンにおいて熊切監督とは同じページにいた気がします。彼が撮りたいことも分かるから、全然ブランクを感じなかったんです。
—— 22年ぶりにも関わらず。
菊地 はい。私は22年前、何も分かっていなかったし、繋がりとは何ぞやみたいなところもありましたしね。本当に素人が映画に出てかろうじて演じていたというか。そこからいろんな経験をしてまた戻ってこられたので、やり続けてよかったなとしみじみ思っています。これもさっきの話じゃないですけど、やっぱり日々の積み重ねがこの道を作ってくれたのだと思うと、全部無駄じゃなかったし、いろんなことがなければ、ここに辿り着いていないと思ったりもします。22年前だったらこんな風には演じられなかったかもしれない。若い時は頭でっかちで、芝居を楽しむということができなかった、楽しんじゃいけないんじゃないかと思っていた気がします。今、起きていることを楽しむことができるのは、歳を重ねたからこそできることなのかなと思います。
—— タイトルに「旅」とありますが、この映画を観て改めて、旅って「旅先で何かする」だけではなく、「移動する」、「目的地に向かっていく」過程も大事なんだよなぁと思いました。菊地さんにとって「旅」とはどういうものだと思いますか?
菊地 旅って帰る場所がないと旅にならないんじゃないかなと思っていて。「帰る場所って何かな」となった時に、普通に考えて「家」なんでしょうけど、家族のところに帰るだけに限らず、「帰るべき人のところに帰る」があっての「旅」なのかなとも。私も旅って何だろうと思っていました。陽子の場合は、自分という人間に戻っていったわけですよね。自分の本来の姿、といったら変だけど、成長した自分にも出会えた。旅って比喩としても使われますからね、難しい。だけどやっぱり家に帰ってくると、「家が一番だな」ってなるじゃないですか。「なんか疲れたな、温泉行ったのに」、「何だったんだろう?」みたいな。そういう意味では、帰る場所がある、それが改めて分かるのが旅なのかな。だから「自分の居場所に戻れる」のが旅だろうなとは思います。
—— なるほど……お話していると、映画のシーンが色々と思い返されるのですが、グッとくる場面が本当に多くて。例えば陽子がおずおずと風吹ジュンさん演じる静江さんに握手を求めるところ……。
菊地 そう、そう。
—— あんなにおずおずしていた陽子がって……。
菊地 嬉しいです。あの場面はもう2人(老夫婦)のたたずまいがすでに素敵で、陽子が自分の父親とちゃんと過ごしていれば、きっとこれくらいのおじいちゃん(静江の夫)になっていたんだなと思う場面でもあって。コミュニケーションを取る以上に、人に触れるって、陽子からしたらもっと努力が必要っていうか、なかなかそんな簡単にいかないわけじゃないですか。だけどあそこに至ったのは、辛い想いもしているからで。すべての経験がそこに繋がるのだなと思うと本当に泣けてきますよね。
—— 去り際ぼそっと、「お身体に気を付けて」と言うのもすごく良くて。で、最後の最後に車の中で独白をし始めて、何だかもう、感動しかなかったです。
菊地 ありがとうございます。試写でも、本当に皆さんが感動してくださって、すごく嬉しかったんです。
—— 例えばなんですけど、『ノルウェイの森』の直子、そして今回の陽子もそうなのですが、ちょっと陰に入った役も菊地さん、めちゃくちゃ上手いじゃないですか。
菊地 ありがとうございます(笑)。
—— だけどお会いする実際の菊地さんって、明るいというか実にオープンで、陽キャだと思うんです。
菊地 よく言われます(笑)。
—— そこがすごく面白くて、他の役者さんでも反対現象みたいなのを感じることがたまにあるのですが、菊地さんは暗さや影を湛えた役に、どうやったらそんなに、深く潜れるんですか? 例えば何を手掛かりに?
菊地 書かれている台本以上のことが起きていないと、そこには至らないから。何と言うか、書かれていることは監督とシェアしなきゃいけないけど、彼女がどうしてここに至ったか?ということは変な話、いくらでも自分が決められる。いくらでも道がある。自分にとっての台本が出来上がるのですが、陽子のように影や秘めた感情を持った人たちの台本を埋める作業というのが私は結構好きで、いっぱいレイヤーを重ねられるなと思うんです。陽のキャラクターっていうのは瞬発的な人がわりと多いから、その瞬発力だけで持っていけるところがあるんだけど、やっぱりこういう精神の人はその道筋に答えがあるから。そこさえちょっとずらさないようにすれば、面白くやれるなって思ったりします。
—— なるほど……お時間なので最後の質問ですが、菊地さんは近年、日本のドラマに出られる機会も増えていたりと、キャリアとしてすごく素敵な道を歩まれていると思います。今後はどう進んでいきたいですか?
菊地 何だろう? 40歳になってこんなラッキーな作品に出会えるなんて、本当にラッキーだなと思っているんですが、やっぱり歳を重ねていくと、作品数もそうですが、難しいところもあるじゃないですか。40代で主演で、こんなヒロイン、映画でもあまりないですよね?
—— 本当にそうなんですよ。
菊地 お母さんの役が多かったり。
—— あとは未婚のキャリア・ウーマンの役とか。
菊地 そう、そうなんですよ。で、いつの間にかおばあちゃんの役をやるようになり。本当はもっと多様化していってもいいのになと思うけど、作品としてはやはり、若い人に向けた華やかな印象のものが多いですよね。だけどこういう作品も愛されると思うから。自分としては今……あとどれくらい役を演じられるのか?と考えていて。どれだけの役、人を演じられるのか。そういう意味では、いろんな役を……また一個一個丁寧に、役者としてやっていきたいなと思っています。
ジャケット(335,500yen)、シャツ(99,000yen)、パンツ(163,900yen) / 以上、メゾン マルジェラ(メゾン マルジェラ クライアントサービス tel.0120-934-779) リング(404,800yen)/ レポシ(レポシ日本橋三越本店 tel. 03-6262-6677) ※すべて税込
『658km、陽子の旅』
監督/熊切和嘉 出演/菊地凛子、竹原ピストル、黒沢あすか、見上 愛、浜野謙太/仁村紗和、篠原 篤、吉澤 健、風吹ジュン/オダギリ ジョー、他
7月28日より〈ユーロスペース〉他、全国順次公開
©2022「658km、陽子の旅」製作委員会
【WEB SITE】
INFORMATION OF RINKO KIKUCHI
2023年後期の〈NHK総合〉連続テレビ小説『ブギウギ』で淡谷のり子をモデルとした歌手・茨田りつ子を演じる。
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